Character 24
毛布
エレインは、毛布の中にいた。
正確には、椅子の上に座っていた。
窓際の、一人掛けの椅子だ。背もたれは深く、座ると身体が少し沈む。そこへ厚手の毛布をかけていた。
かけていた、というより、包まれていた。
白い部屋着の上から、淡い灰色の毛布が肩を覆い、膝を覆い、足先まで覆っている。銀色の髪だけが、毛布の縁から少しこぼれていた。
窓の外では、細い雨が降っている。
雨粒は、硝子に触れるたび、小さな線になって落ちた。
庭の木々は濡れて、葉の色を深くしている。
エレインは、それを見ていた。
見ている、というほどでもなかった。
目は開いている。
けれど、何かを追っているわけではない。
雨。
硝子。
葉。
毛布の重さ。
全部が、ひとつの静かな層になっていた。
膝の上には、刺繍枠が置かれている。
昨日の夜、続きを刺そうとして、そのまま置いたものだった。
針は布に刺さったまま。
金の糸が、半分だけ輪を描いて止まっている。
エレインは、それを見下ろした。
続きを刺す、という考えが、遠くにあった。
手を動かせばいいのだと分かっている。
布を持ち、針を抜き、糸を渡す。
けれど、指は毛布の中にあった。
毛布の内側は、少しあたたかい。
外へ出す理由が、見つからなかった。
扉の向こうで、足音が止まった。
短い間。
それから、控えめに叩かれる。
「エレイン」
ランスの声だった。
エレインは、すぐには返事をしなかった。
声は聞こえている。
名前も、自分のものだと分かる。
けれど、返事をするためには、毛布の内側から少しだけ浮上しなければならない。
それが、今は遠かった。
もう一度、扉が叩かれる。
「入るぞ」
返事を待たずに、扉が開いた。
ランスは、部屋の入口で一度止まった。
窓際の椅子。
毛布。
その中に半分沈んでいるエレイン。
しばらく見てから、彼は扉を閉めた。
「……何をしている」
エレインは、ゆっくり瞬きをした。
「毛布です」
「それは見れば分かる」
「毛布になっています」
ランスは黙った。
雨の音が、二人の間に落ちる。
エレインは、また窓の方へ視線を戻した。
ランスは、少しだけ近づいた。
靴音は低く、床に沈むようだった。
彼は椅子の横に立ち、膝の上の刺繍枠を見る。
「途中だな」
「はい」
「刺さないのか」
「今は、針が遠いです」
ランスは、刺繍枠とエレインの手元を見比べた。
エレインの手は、毛布の中で丸くなっている。
指先だけが、ほんの少し見えていた。
「遠いのか」
「はい」
「膝の上にあるが」
「距離の問題ではないです」
「だろうな」
ランスはそう言って、窓の外を見た。
雨は、まだ細く降っている。
強くはない。
けれど止む気配もない。
エレインは、椅子の中で少しだけ沈んだ。
毛布が、肩の形に沿う。
膝の上で、刺繍枠がわずかに傾く。
ランスが手を伸ばし、落ちそうになった刺繍枠を受け止めた。
「落ちる」
「落ちますか」
「今、落ちかけた」
「そうですか」
エレインは、あまり驚かなかった。
ランスは刺繍枠を近くの小卓へ置いた。
針の位置を確認し、糸が絡まないように布の上へ整える。
その手つきは、いつもより少し慎重だった。
エレインは、それを見ていた。
黒い手袋。
布に触れる指。
金の糸。
雨の音。
見ているうちに、まぶたが少し重くなる。
「眠いのか」
「眠いというほどではありません」
「では何だ」
「低いです」
「何が」
「全体的に」
ランスはまた黙った。
それから、近くの椅子を引き寄せ、少し離れた位置に座った。
音は立てなかった。
ただ、そこにいた。
エレインは、ランスを見た。
「隊長」
「何だ」
「用事があったのでは」
「確認に来た」
「何のですか」
「君が昼食に来なかった」
エレインは、少し考えた。
昼食。
そういえば、そんな時間があった気がする。
「……今は、昼ですか」
「もう午後だ」
「午後」
言葉だけが、部屋の中に置かれた。
午後。
雨。
毛布。
刺繍枠。
ランス。
エレインは、ゆっくり息をした。
「お腹は空いていません」
「少しは食べろ」
「毛布なので」
「毛布は食べない」
「食べません」
「君は毛布ではない」
エレインは、自分の膝を見た。
毛布に覆われていて、身体の輪郭がよく分からない。
「でも、今はかなり毛布に近いです」
「近くても違う」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ランスの声は、いつも通りだった。
強くはない。
けれど、そこで線が引かれる。
エレインは、少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうか、自分でも分からなかった。
ランスは小卓に置かれていたカップを見た。
中身は冷めている。
「茶を替える」
「お願いします」
返事は自然に出た。
ランスは立ち上がり、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
エレインは、また窓を見る。
雨は変わらない。
けれど、部屋の中の空気が少し違っていた。
誰かが来て、見て、毛布ではないと言っていった。
それだけで、身体の輪郭が、ほんの少し戻っている。
しばらくして、ランスが戻ってきた。
片手に新しい茶器。
もう片方には、小さな皿を持っている。
皿の上には、薄く切られたパンと、柔らかい白いチーズが少し。
それから、蜂蜜ではなく、黒蜜が小さな器に入っていた。
エレインは、それを見た。
「黒蜜です」
「そうだ」
「なぜ」
「食べるだろう」
「……食べるかもしれません」
「なら食べろ」
ランスは小卓の上を整え、カップを置いた。
湯気が上がる。
あたたかい匂いが、毛布の縁まで届いた。
エレインは、手を出そうとして、途中で止まった。
毛布の内側から手を出す。
それは、思ったより大きな動きだった。
ランスが見ている。
エレインは、少しだけ毛布の縁を動かした。
指が出る。
空気に触れる。
少し冷たい。
ランスは、何も言わなかった。
ただ、カップの取っ手をこちらへ向ける。
エレインは、両手でカップを持った。
あたたかい。
手のひらから、少しずつ熱が入る。
毛布の内側にいたものが、手のひらのあたりから、人間に戻っていく。
エレインは、一口飲んだ。
喉を通る。
雨の音が、少し近くなる。
「……おいしいです」
「そうか」
ランスは、短く答えた。
それから、皿を少し近づける。
エレインは、パンを一切れ取った。
チーズを少しのせる。
黒蜜を、ごく少量。
口に入れる。
甘さが、ゆっくり広がった。
身体の奥で、何かが小さく頷く。
「食べられるな」
「はい」
「毛布ではないからな」
エレインは、パンを持ったままランスを見た。
ランスの顔は、いつも通りだった。
けれど、今のはたぶん、冗談だった。
たぶん。
「……毛布ではありません」
「ああ」
「でも、まだ少し、毛布です」
「それは認める」
エレインは、また少しだけ笑った。
今度は、自分でも分かった。
ランスはそれを見て、何も言わなかった。
ただ、椅子に座り直した。
雨はまだ降っている。
部屋は静かだった。
窓の外では、濡れた葉が重そうに揺れている。
エレインは、毛布に包まれたまま、茶を飲んだ。
パンを食べた。
時々、窓を見た。
ランスは横にいた。
何かを急かすでもなく、理由を尋ねるでもなく。
ただ、毛布と一体化しかけているエレインのそばで、温度と時間を保っていた。
やがて、エレインの手が、毛布の外に出たままになった。
カップを持ち、パンを取り、またカップへ戻る。
それだけの動きだった。
けれど、少しずつ、人の形が戻ってくる。
ランスが、小卓の上の刺繍枠へ視線を向けた。
「針はまだ遠いか」
エレインは、少し考えた。
刺繍枠を見る。
布に刺さった針。
途中の金の糸。
「さっきよりは、近いです」
「そうか」
「でも、今日は刺さないかもしれません」
「それでいい」
その言葉は、すぐに落ちた。
エレインは、カップを両手で包んだ。
それでいい。
その短い言葉が、毛布の内側まで届いた。
雨が降っている。
茶はあたたかい。
パンは少し甘い。
毛布は、まだエレインの肩にある。
けれど、もう完全に一体化してはいなかった。
毛布の中に、エレインがいる。
そのくらいには、戻っていた。