Character 25

水面に火

本編の時系列とは関係のない、イメージ断片です。 ―――  夜の水は、音を立てなかった。  聖堂の奥庭にある池は、月の光を受けて、黒く澄んでいる。  水面には風もなく、ただ、空の白さだけが薄く映っていた。  エレインは、その縁に立っていた。  白い衣の裾が、濡れた石に触れている。  銀の髪は夜の中で、ほとんど水の色に近かった。  彼女は池を見ていた。  見ている、というより、そこに在るものと、同じ深さで息をしていた。  水の底は見えない。  けれど、底があることは分かる。  底があるから、水はここに留まっている。  留まっているから、世界はまだ境を持っている。  エレインは、手を伸ばした。  指先が、水面に触れる。  波紋は広がらなかった。  かわりに、池の奥で、何かが静かに応えた。  遠い、古い鐘のように。  まだ誰の名でも呼ばれていなかった場所から、かすかな響きが返ってくる。  エレインは、瞬きをしなかった。  その背後で、足音が止まった。  ランスだった。  黒い軍服。  黒い手袋。  夜の中に立つと、その輪郭は火ではなく、火を封じた影に見えた。  彼はしばらく、何も言わなかった。  水のそばにいるエレインを見ている。  水面に触れたままの指。  動かない肩。  夜の奥へ沈みかけている呼吸。  それから、静かに近づいた。 「深いか」  問いは短かった。  エレインは、水面から目を離さないまま答えた。 「はい」 「戻れるか」  エレインは、少しだけ息をした。 「今は、まだ」  ランスは、彼女の横に立った。  二人の影が、水面に映る。  白い影と、黒い影。  水は、そのどちらも拒まなかった。  エレインの指先の下で、奥の響きが少し強くなる。  夜が、さらに沈む。  聖堂の石壁も、庭の木々も、遠い首都の灯も、すべてが薄くなっていく。  残るのは、水だけだった。  水の底。  名を持たない場所。  はじまりより前の静けさ。  エレインの身体が、ほんのわずかに傾いた。  ランスの手が動く。  黒い手袋の指が、彼女の手首の近くで止まった。  触れる直前の距離。  その熱だけが、水辺の空気を変えた。 「エレイン」  名が呼ばれる。  水は、その名を聞いた。  深い場所へ沈みかけていたものが、そこで一度、止まる。  エレインは、ゆっくりと目を閉じた。  自分の名が、身体の輪郭を戻していくのを感じた。  エレイン。  それは、女神の名ではない。  水の名でもない。  器の名でも、徴の名でもない。  ここに立つ、ひとりの人間の名だった。 「……ランス」  呼び返すと、彼の手が動いた。  今度は、触れた。  手袋越しの指が、エレインの手首を静かに支える。  強くはない。  引き上げるほどでもない。  ただ、そこに線が引かれた。  水の底へ続く道と、地上へ戻る道。  そのあいだに、彼の手があった。  池の水面に、ようやく波紋が立つ。  ひとつ。  それから、もうひとつ。  白い月が揺れた。  ランスは水を見ていた。  その目に、恐れはない。  ただ、深さを測る静けさがある。 「このまま沈むな」 「命令ですか」 「違う」  短く言って、彼はわずかに手の力を変えた。 「俺が、まだこちらにいる」  エレインは、その言葉を聞いた。  まだこちらにいる。  水の底ではなく。  聖堂の奥でもなく。  名づけられる前の場所でもなく。  彼は、こちらにいる。  火を封じたまま。  夜の中で。  彼女が戻るための、ひとつの熱として。  エレインは、水面から指を離した。  その瞬間、池の奥で響いていたものが静まった。  消えたのではない。  ただ、また深いところへ戻っていった。  水は、水であり続ける。  エレインは、エレインとして立っている。  ランスの手は、まだ彼女の手首にあった。  夜風が、わずかに動いた。  庭の木の葉が、小さく鳴る。  エレインは、彼の横顔を見た。  黒い手袋。  硬い輪郭。  閉じられた火。  この人の内側にも、底があるのだと思った。  水ではなく、火の底。  燃え上がるためではなく、消えないために封じられた場所。 「あなたの火は」  エレインは言った。  ランスが、少しだけこちらを見る。 「夜の中にあります」  彼は答えなかった。  けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。  エレインは続けた。 「明るくはありません。でも、見失わない」  ランスの目が、わずかに伏せられる。  長い沈黙が落ちた。  やがて、彼は低く言った。 「お前の水も、同じだ」 「水が、ですか」 「ああ」  ランスは池を見た。 「底は見えない。だが、そこにある」  その言葉は、祈りに似ていた。  祈りというには硬く、命令というには静かで、告白というには深すぎた。  エレインは、ゆっくり息をした。  水の匂いがする。  濡れた石の匂い。  夜の木々の匂い。  ランスの手袋越しの熱。  世界は、まだ分かたれている。  水と火。  夜と身体。  神話と軍服。  女神と中尉。  沈むものと、戻すもの。  けれど、その分かたれたままの場所で、二人は並んで立っていた。  ひとつにはならない。  溶けきらない。  名を失わない。  ただ、境界の上で、互いの存在を覚えている。  池の水面に、二人の影が映っていた。  白と黒。  水と火。  月が揺れるたび、その輪郭は少しほどけ、また戻る。  エレインは、ランスの手に自分の手を重ねた。  黒い手袋の上へ、白い指が静かに落ちる。  ランスは動かなかった。  ただ、ほんの少しだけ、指を返した。  夜は深い。  水は澄んでいる。  火は、まだ消えていない。  二人は、しばらくそのまま立っていた。  言葉を使えば、遠くなるものがある。  触れれば、近づきすぎるものもある。  だから、ただ在る。  境界の上に。  月の下に。  水のそばに。  世界が静かに息をする、その場所に。
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