Fragment 06

春分の語り(口伝)

はじめ、 この地に境はなかった。 丘は丘として在り、 川は川として流れ、 人はただ、そこに住んでいた。 けれどある年、 外より人が来た。 山の向こうから、 川の向こうから、 武具を携え、この地を越えんとした。 人々は逃げ、 丘に集まり、 行き場を失った。 そのとき、 ひとりの女が丘に立った。 その手に、 澄んだ水を携えて。 女は石のくぼみに水を注ぎ、 長く祈った。 言葉は残らない。 ただ、人々は見た。 空が静まり、 風がひとつの流れとなり、 地の気が互いに結びあうのを。 そのとき、境が立った。 見えず、 触れられず、 それでも確かに在る境。 外より来た軍は、 丘に近づくことができなかった。 道は乱れ、 風は向きを変え、 彼らはやがて退いた。 人は後にそれを 結界と呼んだ。 女はやがて姿を消した。 ただ水は残り、 泉となり、 その場所に聖堂が建った。 ゆえに人は語る。 この国のはじめに ひとりの女がいた、と。 その身が神であったのか、 ただの人であったのかは いまも定まらない。 ただ、春分の日、 水が注がれ、 祈りがなされ、 境が立ち、 この地は守られたとだけ 伝えられている。
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