Fragment 08

年次結界更新日

 春分の朝、カルナリアの聖堂広場ではすでに人が集まり始めていた。  しかしその頃、魔術師隊の地下施設では、まったく別の光景が広がっていた。  「いや、違う違う。そこじゃない。南側の位相だ」  カーティスは卓上の地図を叩く。  結界観測盤の光が、薄く揺れている。  「南じゃなくて南東です、副長」  若い魔術師が訂正する。  「南東か。なお悪い」  カーティスは額を押さえた。  今日の結界更新は、年に一度の大規模な調整だ。  普段の微調整とは桁が違う。  国全体の位相を一度整え直す。  しかも儀礼と同時進行だ。  「聖堂側は?」  「もう始まってます。王の入場」  誰かが言う。  カーティスは頷いた。  ランスは今、広場に立っているはずだ。  紺の礼装で。  国王の前で宣誓をする役目だ。  「……まあ、あっちはあっちだ」  ぼそりと言う。  「こっちはこっち」  結界盤の光がまた揺れる。  北側の観測線が少しずれている。  「北方拠点、観測値出して」  「出てます」  「遅い」  「今出ました」  「なら早い」  誰かが小さく笑う。  地下の部屋は狭い。  魔術師たちが机の周りを行き来している。  外では祭りが始まっているはずだ。  旗。  屋台。  楽団。  カーティスはふと時計を見る。  「……そろそろか」  結界の更新は、日が傾き始める頃に行う。  昼と夜が等しく交わる日。  その均衡点で位相を整える。  古い儀礼だ。  「南東、まだずれてる」  「わかってます」  「わかってるなら直して」  「今直してます」  また誰かが笑う。  「副長、広場すごい人らしいですよ」  若い魔術師が言う。  カーティスは肩をすくめた。  「毎年そうだ」  「見に行かなくていいんですか」  「見に行ってどうする」  彼は結界盤を指差す。  「これ止まったら、あっち全部意味なくなる」  若い魔術師は口を閉じた。  しばらくして、観測盤の光が少し落ち着く。  「……よし」  カーティスは息を吐いた。  「一次調整、ここまで」  外では拍手が起きている頃かもしれない。  ランスの宣誓が終わった頃だろう。  カーティスは椅子に腰を落とした。  「あと三時間」  誰かが言う。  「三時間で結界全部やり直すんですよね」  「そうだ」  カーティスは答える。  「だから一年かけて準備してる」  机の上の結界図が、薄く光っている。  この国の境界。  見えない線。  昔、丘の上で水が注がれたという場所から始まったもの。  カーティスはその図を見つめる。  そして小さく言う。  「……さて」  椅子から立ち上がる。  「仕事だ」  ***  日が傾くころ、観測室では最後の光が揺れていた。  結界盤の上に描かれた細い線が、ゆっくりと整っていく。  「……南東、安定」  若い魔術師が言う。  カーティスは盤面を見つめたまま頷いた。  北側の観測線。  東方拠点。  川沿いの補助結界。  ひとつずつ、確認する。  「西?」  「問題なし」  「南?」  「安定」  盤の中央に浮かぶ光が、静かに収束する。  カーティスは腕を組んだ。  「……よし」  短く言う。  「終わり」  観測室の空気が一度に緩む。  誰かが椅子に背を預け、誰かが深く息を吐く。  「ほんとに終わりました?」  若い魔術師が言う。  「終わった」  カーティスは言う。  「少なくとも、今のところはな」  そのとき、扉が開いた。  重い靴音が入ってくる。  紺の礼装だった。  外套の縁がかすかに揺れている。  ランスだった。  広場の儀礼が終わったのだろう。  カーティスはちらりと時計を見る。  「……早いですね」  ランスは答えない。  観測盤の前に来て、静かに盤面を見下ろす。  「更新は」  「終わりました」  カーティスが言う。  「南東の位相、少しずれてましたが、補正済みです」  ランスは盤面の光を見ている。  「北側観測線」  彼が言う。  「0.2ほど揺れている」  カーティスは肩をすくめた。  「さっきまで0.3でした」  短い沈黙。  若い魔術師が小さく笑いそうになるのをこらえる。  ランスは腕を組んだ。  「更新ログは」  「記録済みです」  「あとで確認する」  礼装のまま、彼は観測盤を見ている。  そのとき、別の通路の扉が開いた。  軽い足音。  銀の髪が視界に入る。  エレインだった。  髪にまだ外の風の気配が残っている。  彼女は部屋を見回し、少し首を傾げた。  「終わりました?」  カーティスが答える。  「ええ。今ちょうど」  エレインは観測盤の光を見る。  指先を少しだけ上げる。  空気の流れを確かめるように。  それから静かに言う。  「……大丈夫そう」  ランスが初めて顔を上げた。  エレインを見る。  「外は?」  「静かです」  エレインは言う。  「街はもう、お祭りですね」  地下室の光は安定している。  結界盤の中央に、小さな光が揺れている。  この国の境界。  見えない線。  一年に一度、こうして整え直される。  カーティスは椅子に腰を落とした。  「……さて」  天井を見上げる。  「今年も終わった」  ランスはまだ盤を見ている。  「ログを後で」  「見ますよね」  カーティスが言う。  ランスは答えない。  エレインが小さく笑った。  外では、まだ旗が風に鳴っている。
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