Fragment 34
捕虜番号七十六
捕まったとき、最初に銃を向けた兵士は、引き金を引けなかった。
カルナリア軍、西方支援部隊所属。魔術師、アレン・リード少尉。
結界維持班とともに西岸の臨時拠点へ入って三日目だった。
砲撃で通信線が切れ、撤収経路を失った。陸軍の残存兵とともに北へ抜けようとしたところで、ヴァルディア軍の偵察隊に囲まれた。
アレンはすでに魔力をほとんど使い切っていた。
防御結界を立てる余力もなかった。
だから両手を上げた。
それだけだった。
だが、向かいにいた若い兵士は、まるで目の前で死者が立ち上がったような顔をした。
「……魔術師だ」
誰かが言った。
空気が変わった。
「手を下ろすな!」
「下ろしていない」
「喋るな!」
アレンは口を閉じた。
銃口が六つ向いている。
そのうち二つは明らかに震えていた。
兵士の一人が胸元の宗教紋に触れた。唇が小さく動いている。
祈っているらしい。
アレンは少し困った。
自分は今、何をすればいいのだろう。
カルナリア軍の捕虜規定では、抵抗不能となった場合は階級、氏名、所属番号のみを答え、それ以上の軍事情報を提供しないことになっている。
ヴァルディア兵が祈り始めた場合については、何も書いていなかった。
「そのまま動くな」
後方から別の声がした。
年嵩の軍曹だった。
兵士たちの間を抜け、アレンの前に立つ。
視線が手元へ落ちた。
「制御具は」
「手袋です」
「外せるか」
「外せます」
「外すな」
「了解」
軍曹は一度だけ頷いた。
「武器は」
「腰の拳銃のみです」
「魔術は」
「武器として数えますか」
軍曹の眉間に皺が寄った。
「……数える」
「では、あります」
後ろの若い兵士が息を呑んだ。
軍曹は振り返った。
「騒ぐな。拘束具を持ってこい」
「ですが、軍曹」
「何だ」
「それに、触れるんですか」
沈黙が落ちた。
軍曹はアレンを見た。
アレンも軍曹を見た。
「俺がやる」
手首に金属具が掛けられた。
かなり頑丈だった。
魔術師用らしい。
そんなものまで作っているのか、とアレンは思った。
それから、少し遅れて腹部の痛みに気づいた。
軍服が濡れている。
砲撃の破片が入っていた。
「負傷しているな」
「軽傷です」
「衛生兵」
若い兵士がまた顔を上げた。
「治療するんですか」
今度は軍曹が露骨に嫌そうな顔をした。
「捕虜だからな」
「ですが――」
「捕虜だ」
それで終わった。
***
アレンがヴァルディア本土へ移送されたのは、それから四日後だった。
船だった。
窓のない区画に入れられ、手首には拘束具、両手にはカルナリア製の制御手袋を着けたまま。
意外だったのは、手袋を没収されなかったことだった。
「外した方が危険だと判断された」
移送を担当する士官が説明した。
「正しい判断です」
「そうか」
「はい」
士官はそれ以上聞かなかった。
食事も出た。
水も出た。
腹部の傷は毎日診察された。
待遇そのものは、アレンが想像していたよりずっと普通だった。
ただ、誰も近づかなかった。
食事の盆は扉の前に置かれる。
衛生兵は必ず二人で来る。
見張りは交代するたびに、まず彼の両手を確認した。
そして若い兵ほど、よく胸の宗教紋に触れた。
三日目の夜。
見張りの兵が訊いた。
「お前、眠るのか」
アレンは寝台から顔を上げた。
「眠ります」
「……普通に?」
「ほかにどう眠ればいいのでしょう」
兵士は黙った。
「食事もするんだな」
「していますね」
「血も赤い」
「おそらく、あなたと同じです」
「そういう意味じゃない」
兵士は不機嫌そうに言った。
その夜の会話は、それで終わった。
***
ヴァルディアの軍事施設に到着すると、アレンは地下ではなく、石造りの収容棟へ入れられた。
翌朝、尋問室へ連れていかれた。
長机の向こうに三人。
軍人が二人。
聖職者が一人。
アレンは椅子に座らされた。
最初に口を開いたのは少将だった。
「氏名」
「アレン・リード少尉」
「所属」
「カルナリア軍西方支援部隊、結界維持班」
「専門」
「結界制御です」
聖職者の視線が鋭くなった。
「結界を作るのか」
「維持します」
「同じことだ」
「技術的には違います」
聖職者が何か言いかけた。
少将が片手を上げた。
「神学の議論をするために呼んだのではない」
静かになった。
「アルカ島の古層結界について知っているか」
「回答できません」
「首都魔術師隊の編制は」
「回答できません」
「ランス・ヴァレン中佐を知っているか」
一瞬だけ、アレンは瞬いた。
「名前は」
「能力について」
「回答できません」
少将は特に表情を変えなかった。
隣の参謀が書類へ何か記入した。
聖職者が腕を組む。
「自らが扱う力について、何とも思わないのか」
アレンはそちらを見た。
「質問の意味が分かりません」
「人の身で、世界の理に触れることだ」
「結界のことでしょうか」
「そうだ」
アレンは少し考えた。
「保守しなければ壊れます」
聖職者の眉が動いた。
「そういう話ではない」
「では、分かりません」
本当に分からなかった。
古層結界は定期的に検査しなければならない。
柱が摩耗すれば補修する。
位相がずれれば調整する。
放置すれば周辺へ影響が出る。
それだけだった。
聖職者はしばらくアレンを見ていた。
「……これが、カルナリア人か」
小さな声だった。
少将が書類を閉じた。
「今日は終わりだ」
アレンは立ち上がった。
扉へ向かう途中で、聖職者の声が背中に届いた。
「少将。あれを、このまま生かしておくのですか」
足が止まりかけた。
だが、護衛に促され、そのまま歩く。
後ろから少将の声がした。
「当然だ」
「魔術師ですよ」
「だからだ」
扉が閉じた。
***
季節がひとつ変わった。
アレンはまだヴァルディアにいた。
戦況についてはほとんど知らされなかった。
ただ、収容棟の空気から何となく分かった。
兵士の出入りが増えた。
負傷者を載せた車両が頻繁に通った。
一度、夜中に遠くから鐘が鳴った。
その翌日から、見張りの兵士たちは妙に静かになった。
例の若い兵士もまだいた。
名前はトーマというらしい。
最初の頃は盆を置くとすぐ離れていたが、最近は扉の前に数秒残る。
「カルナリアには、神殿がないのか」
ある日、突然訊いた。
「聖堂ならあります」
「何をする」
「祈ったり、儀礼をしたり」
「それだけか」
「古い記録もあります」
「裁判は」
「司法府です」
「婚姻は」
「役所ですね」
「軍への助言は」
「……何について?」
トーマは黙った。
アレンも黙った。
どうやら、また何か噛み合っていない。
「変な国だな」
やがてトーマが言った。
「こちらから見ると、ヴァルディアの方がかなり変わっています」
「そうか」
「はい」
「……まあ、そうだろうな」
初めて、少しだけ笑った。
***
講和が成立したことを知らされたのは、それから十二日後だった。
朝、収容棟の扉が開いた。
いつもの看守ではない。
尋問室にいた少将だった。
「リード少尉」
「はい」
「帰国が決まった」
アレンはすぐには意味を取れなかった。
「……カルナリアへ?」
「ほかにどこへ帰る」
「いえ」
手元を見る。
黒ずんだ金属の拘束具。
「捕虜交換ですか」
「交換ではない。講和条約に基づく相互送還だ」
「そうですか」
「三日後に出る」
少将は事務的に告げた。
「私物は返還する。拳銃は軍経由で返す。軍務資料については返還対象外だ」
「了解しました」
「傷の診療記録も付ける」
アレンは顔を上げた。
「カルナリア側が必要とするだろう」
「……ありがとうございます」
「礼は不要だ」
少将は扉へ向かった。
アレンはその背中を見ていた。
「あの」
少将が止まる。
「あなたは」
口にしてから、少し迷った。
「私を、悪魔だと思っていますか」
少将は振り返った。
しばらくアレンを見た。
「神務評議官に訊けば、そう答える者もいるだろう」
「あなたは?」
「俺は軍人だ」
それだけでは答えになっていない。
アレンが待っていると、少将は短く息を吐いた。
「お前は敵国軍の魔術師だ。捕虜になった。それ以上の分類は、俺の仕事ではない」
アレンは瞬いた。
「……随分、カルナリア的な答えですね」
少将の眉が動いた。
「侮辱か?」
「いいえ」
「ならいい」
扉が閉じた。
***
三日後。
国境近くの停車場に、双方の軍人が並んでいた。
線路の向こうに濃紺の軍服が見える。
見慣れた色だった。
アレンの足が、一瞬だけ止まった。
カルナリア軍の士官が名簿を持っている。
「アレン・リード少尉」
「はい」
「本人確認。軍籍番号を」
答える。
照合される。
「確認しました。お帰りなさい、少尉」
その言葉を聞いたところで、ようやく肩から力が抜けた。
後ろで音がした。
振り返る。
ヴァルディア兵の列の端に、トーマがいた。
目が合った。
トーマは何も言わない。
アレンも言わなかった。
ただ、小さく片手を上げた。
トーマは一瞬迷ってから、同じように手を上げた。
アレンは線路を渡った。
カルナリア側へ入る。
すぐに軍医が来た。
「長期拘束ですね。まず診察します。帰還者用の手続きはその後です」
「手続きがあるんですか」
「当然です」
アレンは少し笑った。
「そうですね」
「どうしました?」
「いえ」
濃紺の軍服。
書類を持った軍務官。
帰還者用の診療票。
列車の発車時刻を確認する駅員。
すべてが妙に見慣れていた。
「帰ってきたな」
誰に言うでもなく呟いた。
遠くで、列車の汽笛が鳴った。